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2005年11月10日

モンゴル憂国の志士達

 モンゴル通信5日目 10月28日金曜日 後編
モンゴル滞在最終日です。

29日の帰国ですが、
早朝7時のフライトのため、5時には
ボイントハ国際空港に行かなければならず、
29日は何もできません。
 通訳をしてくれたトヤさん、ニマさん、ホンゴロさん
そしてドライバーのお兄ちゃん達との最後の晩餐会も
予定していますが、昨日、ガン・ホヤグ議員に
お会いした際、ご紹介頂いたブリッジグループの
ダワ社長と午後4時にブリッジグループの本社で
面談することになりました。
 ダワ社長は、在日本モンゴル大使館の
ジクジット代理大使の外務省の後輩で、
ジクジットさんと同じ日本の信州大学の卒業生です。
今から10数年前、日本からのODAをどの分野で
活用するか研究した結果、カシミアの紡績工場を
建設することとなり、同時にその紡績技術を日本で
学ぶことになり、一番最初に留学したのが、
ジクジットさんで、二番目がダワ社長だったそうです。
ちなみに、繊維に関する学科がある国立大学は、
日本に二箇所しかなくそのうちの一箇所が、
信州大学なんだそうです。
 モンゴルに帰国後、留学経験者達は皆、
ゴビのカシミア工場で働いていたそうですが、
日本のODAの支援で発電所を建設することになり
先遣隊として現地調査にJAICAが、来たそうです。
しかし、通訳を介在したものの日本語が上手く相手に
伝わらず、困り果てた未、日本留学経験者が、
ゴビのカシミア工場にいる事を聞きつけダワさん達を
訪ねたそうです。
 ちょうど四人の留学経験者がいたのですが、
会社が、手伝う事の許可を出してくれなかったそうです。
 しかし、この手伝いは、モンゴルの国家として
重要な仕事と思い許可無しで手伝う事にしたそうですが、
案の定、5日後に会社に出勤すると、四人とも解雇されて
いたそうです。
 そして、仕方なく四人で始めた会社が、現在のブリッジグループ
となり、モンゴルでも5本の指に入る程の企業に成長したそうです。
 そして、痛快なのは、自分達をクビにした、ゴビのカシミア工場
の筆頭株主となり、現在は社長も専務もブリッジグループの人間が
勤める程になったそうです。
  ブリッジグループは、カシミア工場の他に、
いすずやアウディーの輸入総代理店、建設会社、温泉経営、
コンビニ経営、家具の製造、ガソリンスタンド経営、IT関連の会社の経営、
輸出・入の会社経営、サプリメント製造、等々
そして驚いたことには、過日行った日本料理店の「石庭」も
ブリッジグループの経営なんだそうです。
  会社の実情をとうして、現在のモンゴル経済や政治の実情について
詳しく説明してくれました。それ以外にも原油の採掘の件や
養蜂業の話にも花が咲き大変盛り上がりました。
  そして、後刻、夕食を一緒に取る約束し、一旦ホテルに戻りました。
  再び会った夕食の際も色んな話がでましたが、少々過激で書き込め無い
ねたばかりで、内容は割愛します。
  大変気が合ったのとダワ社長が私と同じ年であった事もあり、
お互いこれからもずーっと、情報交換して行きましょう。
と硬く握手を交わし別れました。
  私達の現地スタッフのメンバーも一緒に会食したのですが
会食後、ホテルに戻り、本田さんの部屋で最後の
お別れ会をしました。ウオッカでお別れの乾杯をし、
思い出を語っているうちに、シュールな気持ちになり、
涙がウルウルきました。

  わたしのモンゴルの家族へ
    さようならは言いません
      ごきげんよう、また、会う日まで・・・  (終わり)

投稿者 TAKAHASI_koji : 2005年11月10日 22:03

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